「自分らしく生きたい」
「もっと自由に生きたい」
「自分軸で生きる」——
なんだかよく見るこのフレーズ。
でもその"自分らしさ"、ほんとに中身ある?
ちょっとでも嫌なことがあると、
- 「これは私らしくない」
- 「私は私のままでいい」
って、全部シャットアウト。
逆に開き直っちゃってる人もいるよね。
- 「言いたいこと言って何が悪い!」
- 「私はこうだから、仕方ないでしょ?」
- 「周りに合わせるなんて自分らしくない」
最近、「自由」や「自分らしさ」って、
“なんでも許されるカード”みたいに使われすぎてない?
やってることは他人を振り回したり、自分の都合だけで動いてるだけだったり。
いやいや、それ“自分らしさ”じゃなくね?
ただの自己中じゃね?…ってね。
“自分らしく”の皮をかぶった“自分勝手”が多すぎて、もはや意味がすり替わってる状態。
でもほんとの自由って、
「好き勝手やってOK」じゃなくて、「選んだことに責任を持つ」こと。
むしろ自由に生きる方が超ハードモードだったりする。
でも「自由に生きたい!」って叫んでる人ほど、 自由と自分勝手の違いを見失ってることが多い。
というわけで今回は、「自由」や「自分らしさ」に逃げ込んでしまいがちな思考のクセをバッサリ切っていくよ。
しかも、それが“思い通りにならないことへの耐性”を削ってる原因でもあるって話です。
- 誰にも縛られたくないのに、なぜか苦しい
- 「自分らしく」って言ってるのに、現実とうまく噛み合わない
- 本当は自信がないのに「私はこれでいいの!」って無理やり言ってる気がする
そんなモヤモヤを抱えてる人はもちろん、
"自分さえ良ければいい"ってタイプの人には──
おーい、迷惑だからそろそろ気づいてくれん?っていうお話。です!
ではいくよ!
【自由=好き勝手】の誤解
「もっと自由に生きたい」「自由な働き方をしたい」──
最近よく聞くし、実際そう思う人も増えてるよね。それ自体は全然いいと思う。
…でも、ちょっと待って。
「自由=好き勝手やっていい」って勘違いしてない?
最近、そんな“暴走型・自称自由人”が増えてきてるような。
- ルールは都合よくねじ曲げる
- 相手の都合・気持ちガン無視
- 「私はこれが正しいの!」とゴリ押し
- 責任は取りたくないけど口だけ一人前
- 注意されると「否定された!」とブチ切れる
いや…それ自由でもなんでもないのよ。ただの自分勝手な奴なのよ。
“やりたい放題”は、自由じゃない。
「自分の好きにやって何が悪い」
って言う人もいるけどさ、その“好き”とやらがね、
他人の時間や気持ちを犠牲にしてでも自分の快を優先してるんなら、
それ、もう害でしかないのよ。
そもそも、自由=なんでもOK ってわけじゃない。
ほんとの自由って、
「自分で選ぶ」+「その選択に責任を持つ」こと。
「好きにしていいけど、起きたことは自分で引き受けてね」っていう、わりと骨太なスタンス。
言い方変えれば、自由には「責任」がセットでついてくる。
でも今よく見る“自由”の使われ方って、
「私は自由なんだから、文句言うな!」ってタイプが多い。
ほんとうに“自由に生きてる人”ってさ、
- 他人のこともちゃんと見てて
- 自分の行動の“ツケ”も引き受けてる
それができてないなら、その“自由”はただの免罪符。暴走する言い訳だよね。
こんな感じで、「自分らしさ」と「自由」の勘違いがどんどん人を自己中にさせて、「自分らしさ=好き放題OK」みたいな開き直りがまかり通る空気になってきてる。
"自分らしさ"とインチキ自己肯定
「私はこれでいいの!」
「自分らしく生きてるだけ!」
そう言い張ってる人、ほんとに心からそう思ってるのかな?ぶっちゃけ、“そう言い聞かせないと不安”なだけの人、結構いる。
「私はこれでいいの!」って強く言うほど、実は“そうじゃない”自分を無意識で否定してるパターン
➜無理やり自分を肯定してる=裏に「ほんとはこれじゃダメかも…」がある。
自分に自信がない。
でも否定されたくない。
だから先に「これが私なんですけど?」って開き直る。
…それ、自分のことを受け入れられてないのは他でもなく自分。
「これが私なんです!」の裏に、“誰かに認めて欲しい”が透けてるとしたら、それはただのアピール
➜本当に自分を受け入れられてる人は、他人に認められる必要がない。
本当は認めたくない、受け入れたくない部分に蓋をして、無理矢理いいところだけ肯定しようとする。
これは自己肯定感じゃなくて、インチキ自己肯定。
本当は嫌いな自分をムリヤリ肯定しようとすると、中身が不安でパンパンになる。そして、その不安を他人にぶつけるようになったりもする。
「自分を否定されたくない」から「他人を先に否定する」に変わる。
インチキ自己肯定は、"自分らしさ"とは言えない。
まがい物の自分軸。
ほんとの"自分らしさ"=「今の自分でOK」って静かに思えてる状態。誰かを否定しなくても、自分でいられること。
それができてないと、“自分らしさ”がただの攻撃的な鎧になって、むしろ自分を守るための武装になってしまう。
「自由に生きる」は、実は一番むずい生き方
「自由に生きたい」ってさ、いい言葉だけど、
これ、実は一番ハードな生き方なんだよね。
だって──
- 何を選ぶか全部自分次第
- 失敗しても誰のせいにもできない
- 褒められなくても、評価されなくても、突き進む
自由=自己責任MAX
誰にも縛られないってことは、誰も守ってくれないってことでもある。
だから、ほんとの意味で自由に生きてる人って、
実はめっちゃ努力してるし、ちゃんと折れない芯がある。
「自分らしく生きる」って、見た目以上にハードモードだったりする。
自由=「自分で決める」人生
指示も正解もない中で、自分で考えて選択をして進むって、実はめっちゃ難しい。
「自分さえよければいい」
「他は知ったこっちゃない」
という人間に、これができてるとは思えない。
自分らしさと“本当の強さ”
最初の方でも言ったけど、
本当の“自分らしさ”って、好き放題やって他人に迷惑かけることじゃない。
それはただの「やりたい放題」。 “自分らしく”の皮をかぶった自己中の暴走。
自分らしさ=自分の感情とちゃんと向き合えてるか
- 今なにを感じてる?
- 本当はどうしたい?
- その気持ち、誰かを傷つけたりしてない?
ここをちゃんと見つめて、整理して、扱っていく力こそが「自分らしさの土台」。
「自分らしさ=自分の感情とちゃんと向き合えてるか」っていうのは、
「感情をありのまま認めて受け入れてるかってこと。」
そのうえで、
“自分をちゃんと受け入れてる人”=本当に自由に生きられる人
不機嫌をまき散らさず、感情を理由に人を傷つけず、そのうえで自分の道を進める。それが“自分らしさ”の本質。
逆に「自分さえよければいい」って人は、
一番“自分と向き合えてない”タイプだったりする。
「自由にふるまう=強い」じゃない。
本当の強さって、“感情が荒れても、他人のせいにせず、自分を立て直せる”ってこと。
“自分らしく生きる”ってのは、
「自由に生きる覚悟」と「現実と向き合う力」がセットになってる。
自己中な"自分らしさ"は自分軸じゃない
自己中心的な「自分らしさ」で生きてる人ほど、現実がうまくいかないと、めちゃくちゃ打たれ弱い。
- 誰かが反対したらブチギレる
- うまくいかないとすぐやめる
- 都合の悪いことは「私らしくない」で切り捨てる
それって本当に“自分軸”なの? ただの「ワガママ軸」になってない?
現実は思い通りにならないことだらけ。
それでも、
- 「自分で選んだ道だから」って続けられる
- 「しんどいけど自分で立つ」って決められる
──それが本当の意味での「自分軸」。
「自分らしく」って、“現実と共にいられる強さ”があってこそ成り立つ言葉
「自分らしくいる」って、“どんなときも、自分の足で立ち続けようとする姿勢”そのもの。自由を語るなら、まず現実と向き合う覚悟から。
まとめ:その“自分らしさ”、ちゃんと向き合ってる?
「自分らしく」「自由に生きる」って言葉。
耳ざわりはいいけど、
- “自分勝手に何やってもOK”って意味ではない
- 自由=他人を犠牲にしていい免罪符じゃない
- 自分らしさ=感情に振り回されることでもない
ほんとの意味で“自分らしく”生きるには、
- 「感情を扱う力」
- 「現実に耐える力」
が必要。
それがないまま「自由」だけを振り回してる人は、自分も傷つけて、周りも巻き込んでいくだけだったりする。
“自分で決めて、自分で引き受ける”ってこと。
主のボソッとタイム🌛
他人に迷惑かけるなとか…傷つけるなとか…
こういう系のこと言うとさ、
「綺麗事いうな」
「いい人ぶるな」
みたいなこと言う人もいるじゃん?
確かに内容的にはそう見えるかもしれないけど違うんよね。
今回のとかもそうなんだけど、
体裁とかそんなんどうでもいいのよ。
なんつーか、
害だからマジでやめてくれん?
っていうアレなんです〜🙃
だから、いなくなって欲しい=気づいたらいいな
ぐらいの感じで垂れ流してます。
いい人でもなんでもないんだよね〜。
誰かにとってのいい人って、自分に都合が良いかだけだからね。
その"いい人"ってやつからは抜け出しはしたけど、
みんな幸せに生きれりゃいいなとは思ってるので書いてまーす。悪しからず。
…って、今回の記事でバッサリ切ってた側の「私はこうだから!」に見えるかもしれないけど…🫠
これ、開き直りじゃなくて補足ね。
「いい人ぶりたいわけでもないけど、書いてる理由はちゃんとあるよ」ってだけっす。 言い方下手くそだなー!